自分の中の自分 の水曜日

milkshaker2006-05-10

雨。


以前紹介した本の著者「素樹文生」さんは、自身の鬱病体験記の中でこう綴っていた。

鬱病どん底にいたとき、自分の中にはその状況を客観視しているもう1人の自分がいた。
もうどうしようもなく苦しい時でも、そいつは冷静に、外側から自分を見つめては、他人事のように振る舞っていた。

けれどもそいつは、どん底にいる自分に手をさしのべ、深い海の底からはい上がるきっかけを作ってくれた。
結果的には自分の中の自分によって、至極酷い鬱病の状態から少しははい上がる事ができた。

著作本文そのままの引用ではないが、こんなニュアンスの話だった。


自分自身の場合はどうだろう。
少し気持ちを内側に向け自問自答してみる。そして気が付いた。
上記内容と全く同じ訳ではないが、自分の中には確かにもう1人の自分がいた。


それは、自分を客観視する様な自分ではない。
敢えて言うならば、「対外的」な自分であろうか。


対外的な自分は、いつも背伸びをしていた。
自分を必要以上に大きく見せようといつも必死だった。
「現役でいい大学に入れよ」という親の期待に応えるために必死で勉強した。
超エリートの兄に負けないよう大きな会社に入るために必死で就職活動した。
「コンピューターの仕事が向いてるんじゃない?」と言った結婚前の妻の助言に応えるべく転職後も必死で仕事し資格も取得した。
対外的な自分は、周囲の期待に応えるべく自分の外面を形成し、あまつさえそれが本当の自分自身であるかの用に振る舞っていた。


そして今、鬱病を患ってしまった結果、その対外的な自分は、崩壊するまではなくともその存在をかき消し、完全に1人殻に閉じこもってしまった。
これまでの自分を形成していた対外的な自分がその影を潜めてしまったため、本当の自分はどの様に振る舞うべきなのかよく分からない。
暗中模索の中、本当の自分は自分の在り方を探すが、そこにはかつての対外的な自分が持っていたアグレッシブさや、積極性や活動力、対人能力、社交性、そして自分自身に対する自信は無かった。


でも、これはこれで良い機会ではないかと思う。
対外的な自分には、もうしばらく休んでいて貰おう。
元気になることが出来たら、その時はまた自分の中での最前線に立って貰うから。
それまでは、本当の自分が、それはとても矮小で頼りないけれども、自分を新しく形成するために努力をするよ。


気持ちの整理をすることで、なんとなく割り切った考え方ができるのではないかと思う、そんな水曜日。